それが美しかったり、ほんものそっくりであったり、感動を呼び起こすような表現であれば、よりいっそう、メッセージは伝わりやすいのではないか。 獲物に立ち向かう勇気がでますようにと、昔の人は壁画に動物を描いたのかもしれない。 たくさんの子供を授かりますように、昔の人は願いをこめて女性像をつくったと考えられる。 何を重視するか。 ゴシック建築では、人々を信仰に導くための手段として、戸外の光を取り入れて、聖堂内をできるだけ明るく豪華に飾り立てることで、神の栄光をたたえようとしました。 日常が美しく見えるには芸術家のみならず、見る者一人一人の目の変革が要求されているのだといえそうである。 日常性はただ「見る」という行為のみに甘んじたとき本来の力は消え去ってしまうに違いない。 それが独自の美意識を形成する。 色はすべて光の現象。 例えば石を克明に写生することは、石のもつ潜在的な力を引き出すことであるし、肖像画という形式もモデルの人格までも写し取るものだったはずだ。その場合、画家は意図を拝してただ写しとるだけでよいという考えも成り立つ それが写実そのものの力というものだろう。拓本やデスマスクの神秘はこれに由来している。現代でも特定の人にカメラを向けることは、単にスキャンダルというだけでなく、銃を向けるのと同じほど致命的なものとなりうる。しかし実はこのカメラの出現が、一般にこうした写実の魔力を麻痺させたものであ った。現代人はただ似ているだけでは、もはや驚かなくなっている。 たいていは光が描けないので、光があたったものを描くしかない。 新しいエネルギー体 とにかく道具を持って、キャンバスにかきなぐったり、壁に傷つけたりするのは、実は人間の本能的なもの、存在証明のようなところがあるようにも見えてくる。自分がここにいるのだという証しである。 写真は頭の中のことまでは映しだせない。 絵はもっとその場の一瞬の輝きなりを、効果的に表現するものである。 ゴッホを見て感動するのは、そこに感情の筆跡が残っているからだろう。絵を見ながら、まるでそこにこれを描いたゴッホがいて、荒い息遣いをしているような臨場感をもたせるのも、そうした筆跡のせいである。 つまりは絵画でなければ表現できないものは何かという問いである。写真にできるのであれば写真に任せておけばよいわけだ。 かつては絵画というのは絵に描かれている内容、お話を語るきっかけ、口実として存在していたが、そんなことは文学やことばに任せておけばいいということになって、絵でできるものは、目に映る力強さやマチエールという問題を強く引きずりはじめていった。 ちょっとしたマチエールに感動するというのが出発点である。何が描かれているということには、あまり感動しない。輝いている、つるっとしている、ざらっとしているという感覚的な見た感じの感動に反応する。やきものならそういう鑑賞がふつうだろう。それが絵画だと途端に拒否反応が起こる。絵に意味を見ようとするのだ。そして拒否反応を起こすのは、たいていやきものの鑑賞法を知っている人たちだ。  たしかに物語があって悲劇に涙するというのは、本来美術の世界の話ではない。絵をみてぽろぽろ涙を流すなどということは、まずありえない。音楽や文学では涙が出てくるものだろうが、絵はもっとその場の一瞬の輝きなりを、効果的に表現するものである。そうでなければ、その感動は文学の挿絵としてでしかない。もちろん文学の挿絵であって悪いわけではないが、近代絵画は潔癖さを求めたということである。 色とかたちを淘汰するものとして、マチエールを重視する傾向が現れたが、しばらくすると今度は逆にマチエールをまったく否定する考え方も出てくる。絵画運動はいつもへそ曲がりな若者によって支えられている。絵画はこんなものだと定義すると、必ずそうじゃないぞというのものを作品化していく。そういう歴史である。 マチエールが大事だと言った途端に、そうじゃない方向が生みだされた。マチエールというのは絵画にせよモノにせよ、常に何かを貼り付けているので、微妙な凹凸がある。それはフラットな平面とは言い難い。そこでフラットな平面にこだわるものが次にくる。厚塗りであったものが、こちらでは極端に薄塗りになる。そして筆跡をあえて残さない絵の描き方がそれに同調して登場してくる。  その場合最後に行き着くところは青なら青一色で、大きなキャンバスを埋め尽くすということにもなっていく。手で描くわけだから、フラットで薄塗りで、しかも手の跡を残さないで描くというのは並たいていのことではない。ペンキ屋がペンキを塗るみたいなものである。何か悩み事でもあれば、途端に感情が出てうまくいかない。職人芸のようにことを運ぶ、感情をゼロに近づける絵画が出てくる。 確かに赤一色で何メートルも描かれると、最初見たときにまず驚いてしまう。それは一種の視覚効果である。きれいに風景が描かれているというのも感動だが、馬鹿らしいこんなことよくやったなというあきれ返るような驚きもまた、同じだけのインパクトをもっている。そこでは絵の内容引き下がり、赤という色のもつメッセージが伝わってくる。今までなら赤や黄色という色は、それだけで何かを訴えてくることは無かった。常に何かモノに備わっていたものだ。リンゴが赤いとか、ヒマワリが黄色いとかいうもので、かたちがまず優先していた。ブルーや赤いという色そのものがかたちを伴わないで感覚に訴えてくるものがあるのだと、教えてくれたのが、こうした絵画であったということだ。そこにはかたちをもなくして色だけに終始していったという純粋性が出てくる。 抽象画――もののかたちがないほうが色は純粋に見えてくる。 デッサン以上に画家の思考を物語るものであるのだ。 やがて三原色だけで絵を描くということろにまで行き着く。赤と黄色と青に限ってしまうのである。色は混ぜるとくすんでしまうというもともとの原理があって、そこから純粋化と原色主義に行き着く。 マティスの絵を見た人が「この女の腕は長すぎる」と言った。それに対してマティスは答えて言った。「これは女ではなくて絵ですよ」つまり絵を見るものはいつもそこに描かれているモデルのことを見ていたわけで、絵としては見ていないということである。絵だから腕が長くても短くてもいいじゃないかということで言えば、確かにマティスの方が理にかなっている。実はここに落とし穴があるのだ。モデルを記録にとどめている歴史的な証言であるのか、芸術的表現であるのかのちがいが、そこに出てくる。  ピカソもいくぶん作り話風だが、似たような逸話を残している。ピカソの描く肖像画をけなして、こんなふうな絵を描くべきだと言って恋人の写真を出したアメリカ兵に対してピカソは「きみの彼女はこんなに小さいのか」と答えた。